カツン―――と響くのは硬い地面を蹴り上げる音。



上昇気流に翻る赤衣の様は、ここの誰が見ようと昔と何一つ変わっていないのだろうか。
自ら嫌い続けた色を今も必ず身につけているのは何の皮肉だろう。
他の色の混じりけの無い、まるで血の色を模したかのような髪の色も生まれつき。
この街独特の、少し塵の混じった風がその髪を横へ揺らす。

丸く細い舞台、この街に行き渡る黒い線の元である電柱の天辺に舞い飛んで立ち上がり、その下を見つめた。





白を黒に染め、黒を漆黒へと染め替える。
何かに取り付かれたように、嫌というほど同じ色、嫌というほど同じ目をした人間がそこに集った。
世の中に飽きやってきた者も、最初からこの場所しか知らない者も。


そこは、表の世界で堂々と胸を張って歩けない、そんな者達の場所だ。


一般人が立ち入ることがあるのならまず生臭く乾いた臭いが鼻につく。
耳に入るのは黒鳥の下賎な声。
目に飛び込むのは痩せ衰えた一匹の野良犬。
その下に屍。

拭いきれない煤を背負いながら、極たまに誘われるように伸びる足。

硬い地面から吹き付ける気流に目元を顰めながら見下した底は、昔から何一つ変わってはいなかった。
そこはかつて自分が身を浸していた場所。
貧困も糞も何も、人が捨て去り虫が居つくようになったそこは落書きだらけの灰色スラム街。





思い出も何も・・・、まるで年寄りが昔を思い出すかのような如くデニッシュは、長い長い嘆息を一つ地面に落とした。
それはそれはいつかの前の話。







そして良犬は孤独にえる

―――どこか遠くで鳴いている









世の中腐ってる。

誰も彼も全うな生き方をしている奴なんていない。
自分の欲のためならば何でも欲する、というよりもこれが本来の生きる者の姿なのだろう。
長い間その世界に身を浸しているとその感覚が鈍ってくる。

醜いものだ。

表世界に住んでいる奴はそう言うが、人の事をいえない奴ばかりだ、そんな奴に限って。

誰しも欲望が満たされることを欲している。
奴等はそれを仮面の裏に隠してのうのうと過ごしているだけだ。・・・そうしなければ生きていけない世界だ。



つまりこの場所は、それができなかった表の掃き溜めだ。



伏せ気味に、終わりの無い前を見据えたまま足元には気づかない。
煤に汚れたコートの裾を力なく引く"それ"は何の汚れも知らない目でこの目を見ていた。
裸足で、薄着で、簡単に折れてしまいそうな首には値段の彫られた薄い鉄板が鎖につながれぶら下がっていた。


「・・・買わねぇぞ、他当れ」



―――人に売られ人に買われる子供。



無法地帯のここには何をしようが咎める者は居ない。
元々人として扱われなかった奴ばかり集まってくるところだ、その中で力の無い者が物として扱われるのも、一つの生き方だ。
精々表の世界で捨てられたか、親に引き渡されたか、拉致られたか。
商売人から逃げてきたのだろうか、その目印の値段がぶら下がっている限りまた見つかって捕まるだけだろうに。


弱肉強食にしては、随分と廃れたものだな。


すがる手を引き剥がすように裾を翻し、それでもしがみついてこようとするその子供を睨んだ。
怯えてひるんだソレを一瞥し、また前を見た。

こんな厄介ごとには関わりたくない、子供の世話など御免だ。そもそも自分には関係ない、むしろ逆に目をつけられてしまうだけだ。
何だっていつも人が関わってくるのか、関わりたくないそんな時に限って。
正直分からなかった。


「ついてくんな」


なおもついてくる気配に足は止めずに投げかけた。
子供だから手を上げないものの、いい加減にしなければ・・・いくらでも消えた。
自分が何者か分かってついてきているのだろうか、少なくとも今までの奴等は知った上でついてこようとした。


でもこいつは、知らないだろうな。


誰でもいい、ただ救いを求めているだけの小さな子供。
そいつ一人で一体何ができるというのうか。


お前もしばらく一人だな。


何を思ったか、数歩歩いて踵を返す。
そして、首をかしげているその細い首を引っ張り、首にとぐろを巻いている錆びた鎖を引きちぎった。
抜けないように鍵がついていたが全く関係ない。
軽くなった首を見、俺を見、子供は只黙って汚れない瞳を瞬かせている。

借りをつくりたいわけでも、見返りを求めているわけでも、人助けをしたいわけでもない。
これが表の奴等が言う"同情"だろうか。



同じ感情か、―――笑わせる。



「分かるだろ、何処へでも行け。お前の枷は何もねぇ」


声を出さないことから話せないことは何となく分かった。言葉がわからないならこちらの言うことは分かるのだろうか、といっても別段構いやしなかった。
地面に落とされた鎖はジャラリと鳴り、子供の足元で値段が伏せられる。
まさかこんな反応をされるとは思っていなかったのだろう、子供は呆然と見上げていた。

当たり前だ、俺自身にも分からないのだから。



縛り付けるものは何もない、もう誰も追いかけてこない、誰にもとらわれなくていい。
その鎖の枷はまだ目に見えるから外すことができる。

お前はまだ泣ける涙がある、その足枷はまだその身に染み付いちゃいない。



言う言葉はそれで全部だ。

以降、それ以上気に止めることはせずそのまま後ろに振り返り去った。
らしくもない呼びおこされた感情をまた元に戻し、いたって平常心である。

暫く止まって動かなかった気配は自ら動き出した。
もうこちらにすがってくる事は無かった。
一歩離れるごとに二歩、一歩離れるごとに三歩と、その速さは確かに増していく。
首輪を解かれ、背負うものの無くなった背中は遠くへ、真っ直ぐ続く灰色の道の向こうに消えていく。


首にかかったそれが全てだったろうお前は、まだ間に合うのだから。








そして―――――――――気配は消えた。

一発の銃声と同時に。








振り返り見た紅い目は、遠くに散っていく赤い飛沫を見た。
頭を打ちぬかれた先ほどの子供が、ゆっくりと、一瞬で、赤く染まった固い地面に落ちていくところだった。


その時何となく悟った。
あぁ、不覚だった。
まったく、どいつもこいつも鼻がいい。


言葉すら話せない、名も無き子供は何が起きたのか分からぬ顔のまま硬直し、見えても見えない目で血潮を見ている。

俺の目には、今その子供を狙っていた奴の気配が見て取れた。
白く細い煙を銃口から吐き、壁と壁の影に身を隠し冷や汗混じりに笑っていやがる奴が。
倒れていく商品に軽く戯言をこぼしながら、絶命を確認し後ろを振り返るその時までの動きまで。

精々逃げ出された腹いせだろう。

そして奴は振り返った其処にいた俺に反射的に銃口を向ける。前に物騒なそれと払い落とす。
「いつの間に」、何て言葉も思考回路もやらなかった。
こんな弱者を売る弱者を殴り飛ばしたって何の特にもなりはしない、汚れるだけだ、また回りが煩くなるだけだ。



だがどうしようもなく、腹が立った。



「残念だ」


その一言が誰に向けた言葉だ何てとっくの昔に忘れてしまった。
あの子供のことで哀しいわけでも後悔した訳でも何もない。もしそうならば、ずっと前に自分は壊れてる。


そして、空薬莢の落ちた音が二回、小さく響いた。








特に取り乱すことも無く、済んだ後は妙に冷静だった。

偶然上った電柱の上から見えたのはその昔、スラムを中心に横行していた人身売買のつたない基地だった場所。
今は半壊した建物しか残っておらず、相変わらず住人達が根城にでもしているのだろう。

そこを見るまでただの欠片でしかなかった記憶。
別に自分が潰したからといって所詮ここの治安が変わるわけでもなく、只の鬱憤晴らしだったのかもしれない。
それに確か、あの時は治安何てどうでもよかった。

ここを抜けたつもりでいるからこそ客観視できるが、あの頃の自分は何の感慨も並べてはいなかった。



あの子供の骸は流石に道に打ち捨てていくのも阻まれたため、何とか探してやっと見つけた土の地面に埋めた。
添える花もない。
此処には硬く冷たいコンクリートの地面しか存在しない。

故に、血がこびり付く。


自分が関わった何かの縁だ、してやるよ、あれくらい。



目に見えない鎖は誰かが覚えている限り取り外すことはできない。
首枷も足枷も、全てが取り払われた時、その時の気持ちは一体どんな物なのだろう。
あの子供の様に涙を流すほどなのか。

敬称という名の"名前"の目印。
数字で表せる重みの無い重しも存在する。



なるほど・・・同じ感情か。



どうしようもない此処は相変わらず昔と何も変わっていない。

白を黒に染め、黒を漆黒へと染め替える。
何かに取り付かれたように、嫌というほど同じ色、嫌というほど同じ目をした人間がそこに集った。
世の中に飽きやってきた者も、最初からこの場所しか知らない者も。

そこは、表の世界で堂々と胸を張って歩けない、そんな者達の場所だった。





その中で未だ一人その道を歩く者がいる。

群衆の中から抜け出して、己の枷を取り払うため誰一人として受け入れなかったその身は何処へゆく。
例え独りでも大勢でも、自分が納得しない限りその鎖はずっと巻かれたままであろう。
そして解き放たれた魂は一体何処へたどり着く。

誰かが救われる中、誰かが取り払ってくれるだろう期待はとっくの昔に投げ捨てたはずたっだ。


さて、またこれから何処へ向おうか。








そして"紅蓮"は自嘲気味に笑い、その舞台から音もなく立ち去った。








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とりあえずヒト売りが書きたくて出来上がった代物。