薫編 1
ぽっかりと開けた空間に一人立っている。
足元には畳が敷いてあり、僅かに柔らかく冷たいような温いような質感。
どうやら室内に居るらしい。それにしては無臭だった。畳が見渡すほど一面に敷いてあるのに。
しかし、何故だかは分からないが、此処を良く知る場所だと直感する。同時に、満たされていく安堵感と心の底からの懐かしさが溢れ出してきた。
部屋は障子で仕切られていたが、陽が照っている様に明るい。その割に空気は冷え切っているようにも感じられた。
何故なら、此処には誰も居ない、誰もやってこないからだ。
"おれ"はその事を知っていた。
そう思い立ったそ瞬間、部屋は瞬き一つで荒地へ変わってしまっていた。
足元はささくれて荒れた畳に、壁は破れて横倒しになった穴だらけの障子に、骨はカビと蜘蛛の巣だらけの柱に。陽のささない、暗い部屋に。
途端、"おれ"は胸底から這いあがってくる恐怖にその場から逃げ出していた。
しかし、必死で動かしているにもかかわらず、足はじれったい程進まない。裸足の脚は鉛の様に重たく、水中を走らされているようだった。
想うように動かない足を必死で前に出す。息を粗くしながら後ろを振り返れば、真っ黒い手と思しきものが追ってくるのが見えた。
助けて! 誰か!
誰も居ないと分かっていながら"おれ"は叫ぶ。
途端、転んだわけでもないのに視界がぶれる。
壊れた映写機がカチリと別の映像に切り替えてしまったように、映像が一枚抜けたように、瞬く間に"黒い人"は目の前に現れ"おれ"の行くてを阻んだ。
そして、人型の口が動いた。
「にがさない」
耳元の低い声。
誰の声とも分からない、男とも女とも、一人とも大勢とも分からない。
重い声と共に、"おれ"に向かって黒い手は伸ばされた。
早く逃げなきゃ! 逃げなければならない! ……何で? 誰から? 何処から?
そこまで自問自答したところで、ようやく現に帰る。
暫く、自分が何処に居るのかすら分からなかった。未だ焦燥し、胸を打つ鼓動が痛い。
目を覚ました其処は薄暗くも、薄明るい室内。空気はあまり良いとは言えず、取りつくような暑さがこもっていた。窓を開けているとはいえ、夏の夜は寝苦しい。
「……夢か」
力はないが、「夢だった」と口に出すことで薫は多少の落ち着きを取り戻す。
夢だと気付けば次に取る行動は決まっている。ベッド上に置いてあるであろう時計を手で探り、今は何時なのかを確認する事。
05:54。デジタル時計に表示されていた数字は、起きて活動するには少々早すぎる時間だ。
それでも、また夢の世界に戻る事を恐れて目元を擦る。すると、手の甲が濡れた。
この手の"何かに追われる夢"は、忘れた頃に、まるで発作の様に度々現れる。
始めは飛び起きたり、呻き声で目が覚めたりという事あった。流石に何度も見れば慣れて、いつの間にか目が開いて夢から覚めているようになった。
その夢の恐怖が染みついてしまったのか、現実でも見知らぬ黒ずくめの姿を見かけると身構えるようになってしまった。
夢とは記憶の整理。
実際に見聞きし、感じた筈の記憶を摘まんで集めて作り出される。
印象の強い記憶程、夢に出やすい。
この夢はおそらく今から10年前の"あの日"――薫がその時までの全てを失った日の記憶である。
夢の中の廃れた室内の景色は、今や廃墟となったかつての我が家だろう。其処には誰もおらず、どれだけ希望を抱いて呼んでも誰一人助けに来ないのだ。
そして、追跡者である"黒い人"が自分を捕まえにやってくる。
何故だかは、分からない。
(逃がさない)
確かに頭に残る声。しかし"黒い人"の顔も分からないまま。
夢の内容の大半は目が覚めると霧散して消えていくのだが、「逃がさない」という言葉と"黒い人"の笑みだけは未だ傍にある。
薫は服の中の汗を仰ぎながら横を見る。
横では水色の髪の少女――鈴蘭――が体を丸め、静かに寝息を立てていた。その姿を見やり、そんなに丸まって眠って熱くないのだろうかと苦笑を溢す。
今までに何度か同じような夢見の悪さの所為で起こしてしまっていたのだが、今日は驚かせずに済んだようだ。
良かったと安堵して、薫の胸はようやく静まってくる。
暫くそうして胸を落ち着かせている内に眼が冴えてきてしまっていた。
遮光カーテンは閉めたまま、ベッドから降りる時の浮き沈みで鈴蘭を起こさないよう気を付けて寝室を抜ける。
悪夢の後の気怠さはまだ残るのか意識ははっきりしていない。
「早朝の空気でも吸うかなぁ」
頭を掻くと寝癖がついていて髪の毛が絡み、頭に生えた硬い角に指が当たる。
欠伸の涙で濡れた目じりを再び拭い、洗面所に行く前にまずは今の窓を開け放った。
止まっていた室内の空気が、入ってきた朝の新しい風で動きだす。眩しい朝日は完全に昇ってはいなかったが、暗かった部屋を照らすには十分。
初夏の風が金緑色の髪を揺らし、涼しさが顔の横を緩く通り抜けていく。
天気は昨日の予報の通り晴れる模様。
鳥たちは既に鳴き始め、朝が早い人々はもう動き出しているだろう。
「うん、良い朝だ」
満足げに頷き、その頃には悪夢の余韻も消えていた。
一日の気分は始まりで決まる。
もたついた気も晴らすため、薫はカーテンを纏め、完全に覚醒するために洗面所に向かった。
窓の外の視線に気づかずに。
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